三厩の歴史

※以下に記載する情報については「三厩村史」からの引用を多数使用しています。

まずは「みんまや」の前に「津軽」について知ろう

【津軽】という言葉の意味とは?

そもそもツガルという漢字は他にもあります。

津刈、都加留、東日流。

歴史上初めて津軽の名が世に出たのは、655年つまり大化の改新から10年後の秋7月(旧暦)に津軽のエゾ六人が冠位二階を授けられた事が日本書紀に記載されている。これが最初という事です。


さて、津軽という言葉の意味について少しお話します。

これに関しては、諸説ありますが1番有力と見られるのが中道等氏の下記の説です。


【ツガルはアイヌ語の「チュプカグル」からの転化だろう。「チュプカ」日の出の地、即ち東国を指し「グル」は人で即ち日本人という意味にあたる。】

という説です。


この他の説にも「アイヌ」というワードが関わっています。

遥か古(いにしえ)の頃には奥津軽あたりにアイヌが生活を営んでいたようです。

三厩の地名にもアイヌ語が語源とされる地名もあるようです。

津軽の開拓は義経のおかげ?

源頼朝義経を探すため、全国に守護地頭をおきましたがその頃から津軽平野では開拓が行われました。現在の平賀地方は曾我、工藤の両氏、田舎館と黒石地方は工藤氏が幕府の名により開拓し、一方在来の土豪安東氏も藤崎、十三及び大光寺を中心に蟠居しました。


黒馬の蹄のあとや春の草(錬盛)

この句は「発句外ヶ浜雙六」の中に収めれている句で「三厩」の起因について表した句といえます。

三厩という地名は諸説ありますが、義経伝説に由来する「三馬屋」から来ているとしたいと思う地元の人たちは大勢いるのではないでしょうか?


青森市「橋本」の由来は義経が!?

義経伝説では生き延びた義経一行は奥州街道を避けて間道を北に進み、北上川の対岸である岩谷堂から大殿、有佳などの部落を過ぎ、海浜の沿道を進み宮古の地に少し留まり、漁船の便を借りて、八戸の鮫浦に上陸し潜伏、しばらくしてこの地を出て六ケ所村、平沼の地に至って凡そ一ヶ月滞在した。

この地に橋本与治衛門という旧家があって、その家に伝わる家伝によると、

「その昔、源義経公同家に滞在する事凡そ一ヶ月、いよいよ蝦夷地へ渡海のおり、当主与治衛門見送りのため、今の青森、当時の安方村まで同道せり」という記載があります。

青森市に『橋本』という町名がありますが、これが義経公見送りに同道した橋本与治衛門と別れる際、この地を与治衛門に与えたことから『橋本』の地名が残っているとう言い伝えがあります。